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2010年5月17日月曜日

記憶とは

 ジョナスのコミュニティの人々は一世代の記憶はもっていますが、唯一レシーヴァーだけが、何世代もの記憶をもっているという不思議な世界です。(108ページ)
  「きみに伝えるべきものは、全世界の記憶なのだ。きみや私の前、以前のレシーヴァーの前、さらには彼以前の何世代もの記憶だ」とギヴァーに言われたジョナスは、何を言われているのかさっぱりわからず、「全世界ですって? 何のことですか? 僕たちだけじゃないってことですか? このコミュニティだけじゃないんですか? ぼくは、ぼくたちしかいないと思ってました。現在しかないと思ってました」

 「もっともっとあるんだ。彼方へと去っていくすべて ~<よそ>にあるすべて~ そして前へ、前へ、果てしなく前へとさかのぼったすべてのことさ。私はそれらを全部受け取ったのだよ、選ばれた時にね。そしてこの部屋で、ずっと一人で、それらの記憶を何度も何度も追体験した。そのようにして叡智は訪れる。そうやって、われわれは未来を形づくるのだ」

 コミュニティの選ばれた一人だけが、すべての全人類の記憶を受け取り、そして次に伝えるのですから、とても重い役割です。

 そして、「記憶なしには、(科学などの)知識には何の意味もないということだ」(148ページ)、ともギヴァーは言いました。


 以下は、池田さん(『14歳からの哲学』)の「歴史と人類」の章からの引用です。

146 (携帯を例にとり)便利な道具のおかげで、言葉という精神の価値がいよいよわからなくなっているのだとしたら、進歩どころか堕落じゃないだろうか。

  楽しみを追うこと自体が生活の目的となって、何のための生活なのかを考えることをしないのならば、置き去りにされた精神は、貧しくなるばかりのはずだ。それなら、何のための豊かさだろう。精神が貧しくなる生活の豊かさが、どうして人類の進歩であるはずがあるだろう。

  君だけじゃない。人類の全体が最初からそのことを間違えるべく進んできているんだ...いつかはわからないけれども、とにかく、人類が自然から脱して、自然に対する知識と技術とを所有したその時からだ。決定的だったのが、科学、科学というものの考え方の登場だ...自然を自分の「外に」ある物質と見ることで、それらを観察、実験して、客観的な法則性をそこに見出すことが可能になった。この考え方は、人類にとって画期的なものだった...これは、それまでとはまったく違う自然観だとわかるだろう...自然はすべてが物質であると思い込んでしまったんだ。人類の間違いとは、正確にはこのことなんだ。

150 それぞれの人が自分のために自分のやりたいことをやっているその結果が、まさにひとつのある時代、時代の精神というものを作りあげているのだから、自分と時代、人類の全体というものが、どうして関係ないことがあるだろう。それどころか、精神であるというまさにそのことにおいて、自分とは人類、人類の歴史そのものじゃないだろうか。

  自分と他人はうんと深いところでつながっていると言ったね。そして、自分とは、世界に他ならないとも。まったく関係のない他人同士が、自分勝手に動き回ることで、世界に時代が現れるのはそのためだ。これは気がつくと、ものすごく面白い眺めだよ。すべての他人が自分なんだ。原始人も科学者もテロリストも、同じ精神としての自分なんだ。歴史とは精神の歴史だ。

 「自分とは人類、人類の歴史そのもの」「自分とは、世界に他ならない」「すべての他人が自分」

  ところで、自分とは人類、人類の全体に他ならないのだから、自分がよくならなければ、自分の全体もよくはならない。逆もまた真。「自分さえよければいい」ようなことは、じつはちっとも自分によいことではなおのは当たり前だ。

 『ギヴァー』に書かれていることとつながっているような気はしますが、特に後半の部分は、私にはまだわかりません。どうも「精神」が出てくるとわからなくなってしまうようです。

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