続いて、72ページまでは、孤独、不幸、精神の働きについて。
68 孤独には、ほとんど官能的といってもいいようなものがある。引き込まれるような、ある種の充実感と喜びの感覚である。また、厳格で抑制の利いた、幸福ではないが不幸ではないといったような種類のものもある。むずかしい問題には一人で立ち向かわなければならないとか、特別な経験はけっして人と分かち合うことができないとかいうことがわかったときに感じる孤独感である。
これらとは別に、慰めようもない、厳しい、みじめな孤独感もある。これはじつは悲しみと言ってもいいとわたしは思う。これが孤独と呼ばれるものである。
一人でいることは必ずしも孤独を意味しない。
孤独とは、失われたもの(それは人だったり、歳月だったり、かつて抱いていた希望だったり、達成されなかった夢だったり)を惜しむこと、あるいはこの地球上で自分はごくごく小さな蝿のフンのシミだという気がして、人生の意味に疑問をもったりすることである。それは充実ではなく欠乏である。残酷で、寒々とした不幸である。
69 クリシュナムルティは不幸を、<どうあるべきか>と<どうあるか>との間の距離と定義している。
精神は常に活発に活動している!!
精神は見、推し量り、疑問を抱き、あこがれ、失ったものを探し、悲しむ。→これは、読んだり、聴いたりしている時にしていること?! 精神は人生がどうあるべきかのシナリオを作りあげる。→これは、書くとき、話すときにしていること?! 「精神はけっしてとどまらない」とクリシュナムルティは指摘する。「それはつねに動いている」
70 わたしたちは<どうあるべきか>にこだわり続け、わたしたちを拒絶するものとして人生を見る。
いっぽう、<どうあるか>は精神を鎮め、リラックスさせる....<げんじつがどうあるか>に注意を向けたとき、もはやわたしたちは孤独ではない。過去も、未来も、不幸も恐怖もない。ただ<どうあるか>と、完璧な受容があるのみである。精神が鎮まり、エゴと痛みばかりの思考から離れたとき、初めてわたしたちは、苦しみのあまりどれほど本来の自分を失っていたか、どれほど四角い檻の中に自分を閉じ込めていたかに気づく。電気の利用を思いつき、原始を発見し、月旅行を実現した人間の精神は、人間の敵にもなりうる。このトリックを理解しないと、精神は容易にわたしたちを十字架に磔にするものにもなりうるのだ。
71 自分を今という時点に据えることを、P.D.ウスペンスキーは「自分自身を思い出すこと」と呼んでいる。
72 「子ども時代の記憶とは、いくつかの瞬間における自分を思い出すことにすぎない」
→ 116ページまで、都会暮らしと田舎暮らしの比較と、プライバシー考
83~85 「人とつきあうことや観察されることのない状態、あるいはその特質」
田舎暮らしは、その対極にある生活。常に観察されている状態。プライバシーのない状態。
一方で、都会ではプライバシーがある状態ができている。隣で人が死んでいようと関係ない社会が。
107 出合いによって、変わる。「私の存在のしかたは変わり、もっとゆるやかなものになった」
116 出会い/語らい(互いの夢を交換し合ったこと)で、温かい気持ちで分かれることができた。
← でも、それは未来に生きていること? それとも今?
116 当節、人生はすごいスピードで動く。その速度はますます速くなる。そして逆説的なことに、わたしたちは不変なものを求めて、その中でどんどん速く動くのだ。変化がもたらすものに嫉妬し、不変性に腹を立てる....わたしたちは、変化で人生からなにかが、あるいはだれかが失われるとひどく怒る。それを喪失と呼ぶ。しかし、へんかによってなにかが人生に加えられると、それを当然のことと見なし、これもまた変化であることを忘れてしまう....生きていくうえでできる関係はすべて成長するか、終わるものだ。たまにちょっとの間宙づりの状態にいることもあるが、それもまもなくゆっくりと成長か衰退に向かって容赦なく動いていく。思い出さえも思い出となるやいなや生きてはいない。板の上にピンで留められた蝶のようなものだ。思い出とともに生きるのは、死んだものとともに生きるのと同じだ。経験の衝撃はわたしたちを一度は変えるが、二度変えることはない。
→ 思い出と記憶の違いは???
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