117 わたしたちは変化の引き算や掛け算をそのまま受容するよりほかないのだ。毎日、毎時間、わたしたちは時計のチクタクという音とともに人生の一部を失っていく。両親を失い、妻、夫、友人、子ども、夢を失う。だが、一つだけ言い足さなければならないことがある。なにかが終われば必ずなにかが始まるということだ。これもまた、人生の法則である。
→ なんと前向きな捉え方!!
119 肝心なことは、変化しなければ...同じところをぐるぐる回り、外に足を踏み出すこともできず、動くことも成長することもできなくなる...わたしたちのまわりには、思っている以上に死んだまま生きている人たちがいる。
→ ジョナスのコミュニティだけでなく、この私たちの社会にもそういう人たちが結構多いかも???
また、わたしたちは変化を速めることができない。変化はそれ自体の暦をもっている。人生における最良の、ユニークな曲がり角は、決して強いられたものではない。その根はわたしたちの中に長い時間をかけて育つのだ。わたしたちが気づかないうちに、ユングが呼ぶところの<意味のある偶然>の時を待って。それは遭遇の機会、耳に響く一節、出会い、招待、洞察、啓示などのかたちをとる。人生がわたしたちに求めることは、ただ一つ、ヒントに対して目を開け胸を開くこと。真に関心があることを、無理に、あるいはでたらめに為す人はいない。振り返ってみれば、イーストのようになにかがわたしたちの中で膨らんだのがわかるはず。よくよく注意してみると、成長する方向に私たちは従っているのだ。
→ ジョナスがアクションを起こしたのも、長いコミュニティの蓄積の中でタイミングを見計らったもの?
120 わたしはかつて自分の人生には変化がないと思っていた。すべてがすでに決まっていて、わたしにはまったく手を出すこともできない、と思っていた。そして日記にこう書いた。
「なにも変わらないのか?人生は永久にこのままなのか?」そしてわたしは欲求不満と絶望から“永久に”という単語をページのいちばん下の罫まで繰り返し書いた。わたしはもう人生を終わらせようと思って、屋根裏の古いとランクからピストルを引っ張り出すところまでいった。「あと数ヶ月待ってみよう。もしあと一時間生きられたら、一日生きられるかもしれない。もし一日生きられたらカレンダーのその日に×印をつけるのだ。そんなふうにして一週間生きられるかもしれない」
十日後、わたしは×印をつけるのを忘れてしまっていた。そして二ヵ月後にはすっかり元気になっていた。そして希望に満ちていた。人生はいつも動いている。そして出来事や状況はもちろんのこと、わたしまでを変えてしまっていた。死のうかと思うほどのところまでわたしを運んだ流れはまた、その時点をも越えるところまでわたしを運んでいった。人生は決して留まらない。もしそうと知っていたら、わたしはもっと信念をもって生きただろうと思う。
しかし、あの日わたしが向き合ったのは死ではなかった。それは人生だった。そして変化と成長だった。
→ この辺、なんとコメントしていいか戸惑いますが、ジョナスにも似たようなことが言える気がしないではありません。
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